ダンとサーシャは意地悪な母親よりも、優しいケイトが好きだった。そのことが、余計にアンを苛立たせていたのだ。
「こんにちは、ダン、サーシャ。皆にシチューを作ってきたわよ」
ケイトは途端に笑顔になる。
「ありがとう、 ケイトおばさん」
「私、シチュー大好き!」「こ、こら! ダン! サーシャ!! あなたたち、何言ってるの!? こんな物食べちゃだめよ! 今から食事はジェニファーに用意させるのだから!」
「イヤ! だってお腹ペコペコ! もう待てないもの!」
アンが怒りで顔を真っ赤にさせると、サーシャは激しく首を振る。
「あ! お姉ちゃん! その手、どうしたんだよ!」
そこへダンがジェニファーの手の平に出来た傷に気づいた。
「可哀想に、ジェニファーはあなたたちのお母さんから1人で薪割りをするように命じられて、それで豆が潰れて怪我をしてしまったんだよ」
ケイトが嫌味たっぷりに教えた。
「え? そうだったの?」
「薪割りは大人の仕事だって言ったじゃないか!」サーシャは首を傾げ、ダンが母親のアンを睨みつける。
「そ、そうよ! ジェニファーは、あんたたちより大人だから薪割りをさせたのよ!」
「ジェニファーはまだ10歳の子供ですよ!」
ケイトが言い返した。
「そうだよ! だったら俺だって薪割り位手伝うさ!」
ダンの言葉にアンは青ざめる。
「何言ってるの!? 駄目よ! 薪割りで怪我でもしたらどうするの?」
「だったら、お姉ちゃんは怪我してもいいっていうの?」
今度はサーシャが母親に問いかけた。
「うっ……!」
(な、何なの? この女といい、ダンにサーシャまで……ジェニファーに丸め込まれたっていうの!?)
アンは悔し紛れにジェニファーを睨みつけた。
「あ……」
(どうしよう、叔母様を怒らせてしまったわ……また叩かれてしまうかも……)
ジェニファーの顔に怯えが走り、そのことに気づいたケイトがアンの前に立ちふさがった。
「さぁ、どうします? 子供たちは皆シチューとパンを欲しがっています。夫人は欲しくないのでしょう? ご安心下さい、無理に夫人に食べてもらおうとは思っていませんから。さ、それじゃジェニファー、私の家に来なさい」
ケイトがジェニファーに声をかけた。
「え? ケイトおばさん?」
「ちょっと! ジェニファーをどうするつもりなの!?」
アンがケイトの肩を掴んだ。
「ジェニファーの手当をするに決まってるじゃありませんか。この家ではとても手当してもらえなさそうですからね」
「くっ……か、勝手にしなさい!!」
怒りで肩を震わせたアンは厨房から出て行った。
「お姉ちゃん。ごめん……薪割りなら今度から俺も手伝うよ」
「私も何か手伝う」
「ダン……サーシャ……ありがとう」
ジェニファーが2人に礼を述べると、ケイトが笑顔になった。
「2人はいい子ね。薪割りは、もっと大きくなってからでいいわよ。薪くらい私達が用意してあげるから。他の仕事を手伝っておあげ」
「「うん!!」」
笑顔で頷くダンとサーシャ。
「それじゃ、さっそくだけど2人でシチューをよそって食べれるかしら?」
「勿論! それくらい出来るさ!」
「私も出来る!」「じゃ、2人で仲良く食べなさい。手当が終わったら、ジェニファーを返してあげるから」
ケイトは笑顔でダンとサーシャの頭をなでた。
「ごめんね、ダン。サーシャ。ちょっと行ってくるわね」
2人に申し訳なく思い、ジェニファーは謝った。
「うん、大丈夫だよ」
「行ってらっしゃい」こうしてジェニファーは2人に見送られ、ケイトと彼女の家に向かった――
「ジェニファー様はニコラス様のことをどこまで御存知ですか?」不意にシドが尋ねてきた。「え? どこまでと言われても……テイラー侯爵家の当主ということくらいしか分からないわ」「そうなのですか?」シドが少しだけ驚く。「え、ええ」何しろニコラスとは、まともな会話すらしていないのだから無理もない。「ニコラス様には義理の母親イボンヌ様と、現在25歳の腹違いの弟パトリック様がいらっしゃいます」「あ……」その名前に聞き覚えがあった。ニコラスが使用人達をホールに呼び集め、首を言い渡した時にモーリスが口にしていた名前だ。「イボンヌ様は、何としても次期当主をパトリック様に継がせようと躍起になっていました。そこで何度もニコラス様を暗殺しようとしてきたのです」「!!」その話にジェニファーは衝撃を受けた。「ニコラス様は、今まで何度も命の危機に晒されてきました。馬車に仕掛けをして事故に遭わせようとしたり、暗殺者に襲わせようとしたり……だから常に護衛騎士を周囲に置いていました。でもそれも3年前にニコラス様が当主に決まってからは、命を狙われることも無くなりました。それで本腰を入れて本格的にジェニー様の捜索を行い……ついに居所を掴んだのです」「そうだったの……?」ジェニファーは頷いた。(だからシドを護衛騎士として子供の頃から傍に置いていたのね。だけど、それがどうして私とジェニーの区別がつかなかったのかしら……)「ニコラス様は、過去に毒殺されかけたことがあり……ほんの僅かですが記憶障害を起こしてしまったのです。それがジェニファー様に関する記憶です」「え!? 」「ニコラス様はジェニファー様の声や瞳の色を忘れていました。それでも2人の思い出はしっかり記憶はしていたようです。ニコラス様はジェニー様を見た途端、かつて自分が探し続けていた相手だと信じて疑いませんでした。何しろ、あの方は子供時代のニコラス様との思い出を楽しそうに話していましたから。プレゼントしてもらったというブローチも見せてくれました」「……知っているのは当然よね。だって私、ニコラスと会ったその日の出来事は全てジェニーに報告していたから……写真だって渡しているし、ブローチも……」ジェニファーは寂しそうに呟く。「ですが、俺は初めて会った時から違和感を抱いていました。何故ならジェニー様は俺の方を一度も見るこ
「シドはニコラスの元を離れていたの? 護衛騎士だったのに?」ジェニファーは首を傾げる。「そうです。でもその前に、まずは15年前の話からさせてください」「ええ、お願い」シドは頷くと、話を始めた。「今向かっている『ボニート』は、ニコラス様のお母様の御実家があります。15年前、ある事情があってニコラス様は一時的にそこで暮らしていました」「ある事情って……?」「15年前『ソレイユ』地域では原因不明の伝染病が流行していました。テイラー侯爵家でも次々と使用人が感染していき、ついにはニコラス様のお父上も感染して倒れてしまいました。幸いニコラス様は無事でしたので感染を避けるために『ボニート』へ一時避難して頂いたのです。それで……」「私と出会ったのね?」「そうです。俺も感染していなかったので、ニコラス様の後を追うように『ボニート』へやってきました」ジェニファーは黙って話を聞いている。「ジェニファー様が姿を現さなかったあの日、ニコラス様は日が暮れるまで待ち合わせ場所で待っていました。俺はあの屋敷の近くまで様子を見に行ったのですが、訪ねることはできませんでした」「それは私が内緒で屋敷を出てきているからと嘘をついていたからよね?」ポツリとジェニファーは口にした。「はい。だから諦めて帰りました。その後も毎日毎日、ニコラス様はジェニファー様をあの場所で待ち続けました。今日こそは必ず来てくれるだろうと言って。俺がいくら止めても聞きませんでした」「そう……だったの?」シドの声は寂しげだった。「それから一か月後、感染病も治まってニコラス様と俺はテイラー侯爵家に呼び戻されました。ニコラス様は侯爵家に戻る前日までジェニファー様を待っていました」「!」その言葉に息を飲むジェニファー。まさか、そこまでニコラスが自分のことを待っていたとは思わなかったのだ。「侯爵家に戻ったニコラス様は、ジェニファー様の行方をずっと捜しておりました。そして、3年程前にようやくジェニー・フォルクマン令嬢を捜しあてたのです」「12年もジェニーを捜すのに時間がかかったの?」「はい、そうです。中々ジェニー様を発見することが出来なかったのは、彼女が公の場に殆ど姿を現さなかったからでした。ニコラス様はフォルクマン伯爵家に手紙を出すと、ジェニー様から是非、会いたいと返信がありました。そこで2人で
「シド……」「お願いします、ジェニファー様」あまりにも真剣に頼んでくるシド。これ以上秘密にしておくわけにはいかなかった……というよりも、誰かに話を聞いてもらいたかった。「分かったわ……全て話すわ。でも、お願い。今からする話は、絶対に秘密にしてくれる。ニコラスには言わないと約束して欲しいの」「分かりました。こちらもジェニファー様が話したくないを内容を無理に聞き出そうとしているのです。絶対にニコラス様には言わないと誓います」シドは頷く。「実は……」ジェニファーは重い口を開いて話を始めた。15年前、どのような経緯で『ボニート』へ来たのか。何故ニコラスやシドの前でジェニーと名乗っていたか。そして、突然姿を消してしまった理由を……。****――16時半「そ、そんな事情があったのですか……?」ジェニファーから話を聞き終えたシドの顔には驚きの表情が浮かんでいる。「ええ。あの日、いつも以上にジェニーの喘息が酷かったわ。何を言われようとも、町に行かなければジェニーは命の危険に晒されることも無かったし、フォルクマン伯爵の信頼を失って憎まれることも無かったわ……。それに、ニコラスや貴方の前から突然いなくならなくて済んだかもしれないのに……全て私がいけなかったのよ」今でもフォルクマン伯爵家を追い出されときのことを思い出すと辛くてたまらない。涙が枯れるほどに泣き崩れたあの日。あれほど優しかった伯爵の激昂した姿、親切だった使用人達から向けられる冷たい眼差しが今も忘れられない。すると――「何を仰っているのですか!? ジェニファー様は何一つ悪くないではありませんか!」突如、シドが感情を顕にした。「え?」今まで冷静だったシドの姿しか見たことが無かったジェニファーには驚きだった。「ジェニファー様を追い詰めたのはジェニー様です。自分のフリをするように命じたのも、町へ行くことを拒んだジェニファー様を無理に行かせたのも全てジェニー様が自分で撒いた種ではありませんか。むしろ被害者はジェニファー様の方です」だが、ジェニファーは首を振る。「シド、ジェニーを悪く言わないで……私は元々ジェニーのお世話をするためにフォルクマン伯爵家の別荘へ呼ばれたの。そのためのお金だって貰ったわ。病弱で外に出ることも出来ない彼女を置いて、ニコラスと楽しい時間を過ごしたのは事実なのよ。本当
ベビーカーにジョナサンを乗せ、3人は何件もの洋品店を回った。シドとポリーはジェニファーに似合いそうな服を何着も試着させ、サイズが合えば全て購入した。その他に靴やバッグ等様々な小物類を買いそろえた。そして最小限の品だけを手荷物として汽車に持ち込み、残りは全て郵送することにしたのだった――――15時 3人は『ボニート』行きの汽車に乗っていた。「1等車両って本当にすごいのですね……。まさか汽車の中に、お部屋があるとは思いもしませんでした」ポリーが感心した様子で車内を見渡している。この部屋は長椅子以外に、2台のソファ。そして上下2段のベッドにクローゼットが置かれていた。「そうね」ジェニファーは相槌を打ちながら、長椅子の上で眠っているジョナサンの頭をそっと撫でた。(一等車両に乗るのはフォルクマン伯爵と一緒に『ボニート』へ行って以来だけど、ポリーには言えるはず無いものね……)そこへシドが声をかけてきた。「ジェニファー様。お疲れではありませんか? 個室を2部屋確保しているので、少し休まれてはどうですか?」「私なら大丈夫よ。まだ休まなくて平気だから」子供の頃から働き詰めだったジェニファーは体力には自信があったのだ。するとポリーが遠慮がちに口を開いた。「あ、あの……それでは申し訳ございませんが、私が休ませていただいてもよろしいでしょうか? 実は、初めての汽車の旅で少し疲れてしまって……」ポリーの表情には疲れが滲んでいる。「まぁ、そうだったの? 気付かなくてごめんなさい、ポリー。私のことは気にせずに、ゆっくり休んでちょうだい」「それなら、隣の個室を使うといい。俺は少しジェニファー様と話があるから」「ありがとうございます。ジェニファー様、シドさん。それではお言葉に甘えて休ませていただきます」ジェニファーとシドの気遣いにポリーは会釈すると、部屋を後にした。――パタン個室の扉が閉じられると、ジェニファーは早速先程から思っていたことを口にした。「シド、私……あんなに沢山の服を買っても良かったのかしら。何だかニコラスに申し訳ないわ。また無駄になってしまう可能性もあるのに」15年前のことを思い出し、ジェニファーはポツリと呟いた。初めはとても優しかったフォルクマン伯爵。あのとき沢山服やドレスをプレゼントされたが、屋敷から追い出された際に全て置いてき
ろくにニコラスと挨拶を交わすこともないまま、慌ただしくテイラー侯爵家を後にすることになったジェニファーたち。既に迎えに来ていたのはとても豪華な馬車だった。ジョナサンを抱いて乗り込んだジェニファーはすぐに馬車の中を見渡した。豪華な内装は目を引くばかりだ。(そういえば、フォルクマン伯爵と一緒に乗った馬車もこれくらい立派だったわね)「素敵な馬車だわ……内装も立派だし、座り心地も良いわ」ジェニファーがふと15年前のことを思い出して、口にするとシドが驚きの表情を浮かべる。「それは一体どういうことですか? ジェニファー様は、この屋敷までどのようにしていらしたのです?」「ニコラスから小切手が送られてきたので、自分で汽車に乗って辻馬車を拾って来たのよ」けれど叔母のアンに小切手を全て奪われてしまい、旅費が足りなくなって辻馬車代を出してもらったことは流石に恥ずかしくて言えなかった。するとポリーが目を見開く。「え!? ジェニファー様は、たったお一人で侯爵家まで来られたのですか!?」「え、ええ……そうよ」恥ずかしそうに俯くジェニファーをシドは、自身の膝を強く握りしめながら話を聞いていた。(ニコラス様は何故そんな仕打ちをジェニファー様にしたのだろう? ジェニファー様と突然連絡が途絶えてしまったとき、あれほど必死になって捜していたのに……! もし、今冷遇しているジェニファー様が自分の捜していた相手だと知ればニコラス様はどう思われるのだろう?)けれどジェニファー本人からニコラスには言わないで欲しいと口止めされている以上、シドからはどうすることも出来なかった。シドはポリーと楽しげに話をしているジェニファーを見つめる。貧しい身なりは、とてもではないが候爵夫人には見えなかったが、ジェニファーの美しさは損なわれることは無かった。ジェニーとシドは殆ど交流したことは無かったが、顔を合わせたことは何度かある。2人は驚くほど良く似ていたが、それでもシドにとってはジェニファーの方が美しく見えた。(駅に到着したら汽車に乗り込む前に、まずはジェニファー様の身なりを整えなくては……)揺れる馬車の中で、シドは色々と思い巡らせるのだった――**** 馬車はドレイク王国の首都、『ソレイユ』に到着した。ジョナサンは馬車の揺れが気持ちよかったのか、ベビーカーの中でスヤスヤと気持ちよ
シドが書斎に戻ってみると、ニコラスは既に出立の準備が終わっていた。「ニコラス様、ジェニファー様に『ボニート』へ行くことを伝えてきました。もう準備を始めていると思います」「そうか、ご苦労だった」「では、私も荷物の準備をしてまいります」シドが書斎を出て行こうとすると、ニコラスが引き留めた。「待て、シド」「はい。何でしょう」「お前は視察について来なくていい。代わりにジェニファーと一緒に『ボニート』へ行ってくれ。他の護衛騎士達を連れていく事にする」「え……? ですが……」「ジェニファーとジョナサンには他の護衛騎士をつけようと思っていたが……お前が彼女を任せるのに一番信頼出来そうだからな。それにシドはあの地域に詳しいだろう? 何しろ少年時代を一緒に過ごした仲なのだから」「ニコラス様……よろしいのですか?」本当のことを言うと、ジェニファーから詳しく話を聞いてみたいと考えていたところだったので、シドにとっては好ましい提案だった。「ああ、俺が戻るまでの間ジョナサンとジェニファーを頼む。向こうの屋敷には既に連絡はしてあるからな」「はい、ニコラス様」「この小切手をジェニファーに自由に使うようにと言って渡しておいてくれ。後のことを頼む」ニコラスはそれだけ言うと、シドを残して書斎を出て行った――****「ジェニファー様。本当にお荷物はこれだけでよろしいのでしょうか?」ポリーはジェニファーが用意した、たった2つだけのボストンバックを見て首を傾げる。「ええ、そうなの。……少なくて恥ずかしいけど」ジェニファーは眠っているジョナサンを抱きながら顔を赤らめる。その姿にポリーは思った。(確かにジェニファー様の着ている服は、とてもではないけれど侯爵夫人がお召になるような服とは思えないわ……ジェニファー様に充てがわれる予算は無いのかしら……?)――そのとき。開かれていた扉からシドが姿を見せた。「ジェニファー様」「あ、シド。どうしたの?」「お部屋の扉が開いていたので、声をかけさせていただいたのですが……中に入ってもよろしいでしょうか?」「ええ、どうぞ」「失礼いたします」ジェニファーに促され、シドは部屋に入ってきた。「ジェニファー様。俺が一緒に『ボニータ』へ付き添うことになりましたので、よろしくお願いします」護衛と言えば不安な気持ちにさせてしま